現在でも、このJR千里丘駅近辺には、三宅城の家臣の末裔の3家が住んでいます。これらのいくつかの家には三宅国村公の画像、位牌とともに、落城の模様をしるした「三宅落城濫觴(写真参照)」が伝来しています。末裔の3家は、毎年、三宅国村の命日には集まり井於(いお)神社の神官により神事が行われています。
この「三宅落城濫觴」によると、天文18年(1549年)3月29日、主君とたのむ管領細川晴元の軍勢に急襲され、城主国村夫妻らが自刃して三宅城は落城した。落城のとき国村には一男二女の幼い児がいた。国村夫人は勇将、高橋治部左衛門政近に命じて深夜春日櫓の壁を破り、囲みのすきを突いて脱出させた。政近らは闇に紛れて鳥養から舟で淀川を上り、芥川口の唐崎に着く。翌々4月1日の明け方に勝尾寺山麓にたどりついて、康和坊のもとに身をひそめたのである。そののち国村の嫡男松千代はそのとき5才だったが、高橋氏の二女を妻とし、7才の二女は寺井氏の嫡子(16才)と結婚した。三女(3才)は杉本氏の11才の子に嫁いだ。ただそのとき8才だった長女は牧氏の子がまだ3才の幼少だったので結婚せずに、牧氏の長女とともに仏門に入って、尼の辻に草庵を結んで「防風庵」と名づけ、父母を偲び三宅城の一族一門の冥福を祈った。このように、読むものをして涙を催させる悲壮な肉親愛情物語である。
しかし、これは、古く伝えられていた文書が元和4年(1618年)に焼失してしまったのを、他に残る文書や言い伝えをまとめて記したのもらしく、「細川両家記」、「岡藩諸士系譜」に記述するところとは、多少差異があり、その真疑のほどは決定できない。
また、大阪成蹊女子短期大学岡田名誉教授によると当時の戦いでは戦況が不利となれば城内より和睦を申し入れるのが常であり、城を枕に討死にという落城形態が少ないところから地元の史料は肯定し難い。「三宅継図(池田市)」・「三宅系図(茨木市)」とも後世のものであり内容的に伝承の可能性があるとのことである。
最終更新日: 01/29/05