応仁・文明の大乱で守護が上洛、守護代の領国支配が不安定の中、三宅氏は、国人として在来の荘園支配のなかに侵入し、荘園制的村落秩序を破壊していった。
この荘園制的村落秩序の破壊は、守護大名にとっては危機をもたらすのもであり、文明9年(1477年)の乱終結で幕府は、荘園還付を行った。これに摂津の国人は反発し、既得権益の維持のため畠山義就と結託し国一揆を文明14年(1482年)に起こした。
これに対して、管領畠山政長・摂津守護細川政元の大連合軍は、畠山義就を打つため、国一揆の拠点である三宅城を文明14年に落し(「後法興院政家記」)、7月茨木城、吹田城を陥れ、苛烈な国人粛清を展開した。
翌年8月、吹田、池田両氏と共に淀川対岸の千丁之鼻(守口市)に城を構え、そこから50丁ばかりの地点で堤を切り、流れの水を氾濫させて細川政長軍を壊滅的な打撃を与えた(「大乗院寺社雑事記」)。
その後の国人懐柔策により、三宅五郎左衛門は延徳2年(1490年)12月に細川政元より「摂州少郡代に任命された(「蓮成院記録」1)
応仁の乱以後、国人層の社領介入が激化した春日社にとって御供米を確保するためには守護勢力の関与が必要となり、守護細川氏の被管三宅氏が徴納を請負い三宅一族がその任にあたったとみられる。(今西春定文書)
東軍(細川方):畠山政長、斯波義敏ら総勢約16万
西軍(山名方):畠山義就、斯波義廉ら総勢約11万6千
摂津の国衆は、摂津守護であった細川勝元に組し、応仁元年(1467年)5月26日の早朝、次のように配置された。
先大手ノ口ノ北ヲ薬師寺ノ与一兄弟、摂州衆相副。大和衆ヲ加勢二加エ。大田垣ガ前ヘ被レ向。(中略)百々の透ヲバ三宅。吹田。茨木。芥川等ノ諸侍二仰セテ。能成寺ヲ南ヘ。平賀ガ所ヲ責ラルル也。
戦いは大手の口から火ぶたを切ったが薬師寺与一の率いる摂津国人衆の突撃が11年間にわたる戦乱の幕を切って落とした。
西軍の局面打開のための山口 大内政弘軍の上洛を摂津国でとどめようと東軍は摂津守護代秋庭備中守元明を急派したが、三宅三郎は戦死し、池田氏と共に大内氏へ降った。
文明元年(1469年)7月摂津地方が戦場になり、この時には、東軍に帰参し、山名是豊が大内勢を追って兵庫より山崎へ向かうが途中山田庄三宅館に陣を構えた(野田弾正忠泰忠の軍忠状)
永正4年(1509年)、三宅氏は高国方に属し、摂津の国衆伊丹・河原林と共に細川尹賢を大将にして池田城を攻め落城させた(「細川大心院記」)。
永正8年、高国は摂津の国衆池田・三宅・茨木・安威・福井・太田・入江・高槻を堺にさしむけたが、和泉の深井(堺市)の合戦で負け(「瓦林政頼記」)、この時、三宅和泉守は戦死したと思われる。
同年、摂津国芦屋の戦いにも澄元軍が勝利をおさめ、澄元方諸将が上洛した時、摂津より「三宅出羽守・入江九郎兵衛尉・山中新右衛門尉・其外諸浪人数千人」(「瓦林政頼記」)が上洛したとある。
大永6年(1526年)、摂津国衆の池田氏・三宅氏・吹田氏は今度は晴元方として立ち上がり、吹田に陣取って高国方の伊丹国扶ら伊丹衆と一戦を交えた(「細川両家記」)。
翌年2月、丹波の柳本軍が高国方の有力部将薬師寺氏の守る山崎の城を攻め落とすと「摂州上群芥川城、太田城、茨木城、安威城、福井城、三宅城ことごとく」(「細川両家記」)晴元方に服し、同12日、桂川の合戦で三好元長・柳本賢治の連合軍は高国を破って近江に走らせた。
三宅氏一向宗門徒になる:初期の戦いには、三宅氏の動きはあらわれていなが、「私心記」の天文3年(1534年)には、「2月11日、三宅、御門徒ニ可成由、申候」とある、これは、細川被官であった三宅氏が門徒になったのである。この地方は本願寺勢力が大きいので、みづから有力門徒化した方が、農民支配をより強力にし、国人としての立場を有利にすると考えたのであろう。要するに三宅氏自身の政治的・社会的地位保全策として門徒化の道を選んだのである。
三宅氏両軍の仲介役となる:天文4年(1535年)6月、本願寺は晴元方と戦い、一揆数百人が討死した。その9月和議のため両軍の仲介役として三宅国村が選ばれた(「私心記」)。そして、天文6年(1537年)、「12月27日、三宅出羽守方へ、先年の右京兆(晴元)の和与の礼として、書状をもって鳥目50貫を遣わす」(「証如上人日記」)とあるのは、国村のこのときの功績をさしている。
三宅氏の寝返り:細川晴元を攻略して、細川高国の実弟晴国が管領細川氏の主になれば、三宅氏は、国人衆から大きく上昇することができると思い、三宅国村は、晴国をかついで大将にした。しかし、天文4年中嶋一揆の敗北の結果、一揆軍の敗北を見るやいなや、自分の身を守り細川晴元に帰参するために、自軍の将の細川晴国を自殺させた(天文4年(1535年)8月25日の「重編応仁記」)。これは、離合離散が常であった戦国の世の習いである。また、「細川両家記」では、この事件を長田忠致に裏切られた源義朝の故事に託して『昔義朝待賢門の夜いくさにかけまけさせ給。尾張国へ御腹めさるゝ事今更思ひ出られ。一入哀也ける。 』
三宅氏再度、故高国側につく:天文10年(1541年)9月、細川高国の妹婿である塩川政年が一庫城(川西市)で兵を挙げると、木沢長政・三宅氏・伊丹氏は、晴元に抗して塩川についた(「証如上人日記」)。
三宅氏再々寝返り:天文10年(1541年)11月、木沢軍が原田城(豊中市)を攻撃中に、三宅国村が細川晴元側で帰参するとのうわさがあり、孤立を恐れた木沢軍はあわてて陣をとき河内で帰った。事実、12月三宅国村は細川晴元軍に帰参した(「細川両家記」)。この三宅氏の帰参は、細川晴国の一件が高く評価されすぐに帰参を許されたが、同様に帰参を願い出た伊丹氏は、翌年の6月まで帰参を許されなかった。
天文11年(1542年)3月、木沢長政は河内で畠山稙長に攻め殺された。その27日には、細川晴元が摂津国から帰洛したが、三宅国村は騎馬で意気揚々と晴元に従っていた(「言継卿記」)。
三宅氏再々々寝返り:天文12年(1543年)7月、もと細川高国に属した浪人たちが、高国の跡目と称して細川尹賢の子氏綱をかついで兵を挙げ、晴元方と和泉で戦った。
三宅出羽守は、先には晴国をかついだ(「続応仁後記」)が、今度は細川氏綱にその夢を託したのである。
天文16年(1547年)になって、晴元方は総力をあげて摂津の攻略をはかり、原田城を落とした後、2月25日に三宅城を囲んだ。
「3月15日に外城責落さるゝ也。然ば城内より詫言して、同22日に本城も明渡す也。双方共悦也。」(細川両家記)
かくて三宅城は落ちた。この三宅城攻めにさいして、本願寺証如は、3月8・10・13日、それに落城後の24日、晴元および包囲中の各将へ、さらに三宅国村へも書状と品を贈っている(「証如上人日記」)。
天文17年(1548年)、細川晴元の執事三好長慶と晴元および三好政長との対立が深まった。長慶側は、三宅氏をはじめ芥川・茨木・安威・池田・原田・河原林・有馬氏などで、晴元・政長側は、伊丹・塩川氏であった(「足利季世記」・「陰徳太平記」)。
天文18年(1549年)3月1日長慶は伊丹城を攻めて城下に放火し、3月1日には中嶋を取り、榎並城に迫っていたが、同じころ三宅城は晴元側の香西元成に攻撃され、短時日のうちに落城した(「万松院殿穴太記」)。この時地元には「異伝」がある。
この後、三宅城は香西元成の拠るところとなったて、5月には細川晴元、三好政長も入城して、晴元方の要衝となった。6月17日に三好政長は、三宅城を出て江口に布陣したが、三好長慶は三宅城と江口の連絡を絶ったうえ、6月24日に江口で3000対3000人の激戦を展開し880人が討死し、ついに三好政長を敗死させた。そこで、細川晴元も三宅城を棄てて、近江の東坂本に逃れた。ここで三宅城には再び三宅国村らが戻った。
この戦いで明応2(1493年)以来続いた細川惣領家による「京兆専制」は消滅し、三好長慶が細川氏綱のもと、管領代として畿内の実権を掌握した。
天文21年(1552年)正月に、三好長慶は将軍足利義輝を京都に迎え、2月に細川氏綱を管領とした。ところが天文22年(1553年)3月、将軍足利義輝は細川晴元を召し返そうとしたため、三好長慶の怒りにふれて追い出された。4月、三好長慶は芥川城を攻め、9月3日には、丹波攻めの軍を仕立てるが、三宅国村もその中にあり、三宅城で留守を守った一族の三宅村良は香西元成・三好政勝の大軍に攻められて戦死した(岡藩「諸士系譜」)。
その後、三好長慶は絶頂期を迎え、河内守護畠山高政と対立し永録5年(1562年)5月教興寺(八尾市)の一戦で三好長慶は、大勝した。この時三宅出羽守は畠山方へ一味して同月「摂州豊嶋群十里計放火共候つれば。此如成行候条。則晩景より我城を明。浪人にて候。」(「細川両家記」)とある。捲土重来を期した出羽守であったが、戦い利あらず遂に浪人となったのである。
その後、三宅氏は中川氏(茨木城)の家臣となり、文録3年(1594年)中川家の豊後岡藩(大分県竹田市)への転封で三宅氏も岡へ移り、その地で明治維新を迎えるにいたる。
このように、三宅氏は摂津の要衝にあって、いかなる陣営からも重要視される特異な存在であり、三宅氏自身も目まぐるしく揺れ動く戦乱の世にあって、権謀に身を処すことを保身の術として動乱に生き抜いた一族であった。
「摂津国人三宅氏の出自と後裔」(大阪成蹊女子短期大学研究紀要
第16号)
「摂津国人三宅氏の動向」(大阪成蹊女子短期大学研究紀要
第14号)
最終更新日: 01/29/05