ゴールデンツーリズム論



G.ツーリズムと言えば、従来はグリーンツーリズムのこととして受け取られてきた。
 グリーンツーリズムも手放しで受け入れられるものではないということに関しては、私は6〜7年前から述べてきている。だが、今やゴールデンツーリズムと呼ぶべき奇怪な観光論、ツーリズム論が、正体をそれとして見破られない巧みな装いで蔓延している。
 それは、政府、業界、学界が一丸となって進めている金まみれ事業なのである。今問題になっている、政府の機密保持法がやがては効力をもって来るであろう。私の言論も封殺される時代になるのかも知れない。こんなぶっつけ仕事を人目に晒すのは気が引けるが、敢えて今公開することにした。



    ゴールデン・ツーリズム論
   大橋昭一「観光の本義をめぐる最近の諸論調」批判
                       牟田口 雄三

 インターネット上に表記の論文を見て、筆者はこれによって労苦することなく現代の世界的な観光理論を概観することができると思った。日本観光学会の会長さんの堂々たる論文であると見えたからである。しかし、それは即断に過ぎた。ほんの2ページ読んだところで、とてもそんな論文ではないと理解した。これもまた、何処の学界にも見られる輸入論文の要領良い取り纏めに終始して、自分の見解などどこにも示さない主体性欠如の点数稼ぎ論文でしかないのである。それだけではなく、このような論文が観光の本質に関する最近の論調を示すものであるとしたら、世界の「観光」を事とする学は、観光の本義を没却した頽落した学でしかない、いわば金まみれの「ゴールデン・ツーリズム」論でしかないことが明らかとなった。
 学問というものは、世を益するものであるはずだという筆者の予断が、この論文を読んで怒りを呼び起こした。すぐれて文化的な営みであり得、またそうでなければならない観光、それを糞土のように貶めて恥じるところを知らない。筆者が敢えて異を称えて別形の観光論、レジャー論のあることを示そうとする所以である。

1.観光・ツーリズムの定義
 序論において標題のように見出しを付けた上で、大橋氏は「観光とはそもそも何か。社会経済上どのような意義をもつものであるか。この問題について最近の国際的論調を手がかりに考察することが、本稿の課題である」(19)と論述を開始する(註@)。観光とは何であるのかを明らかにすることに続けて、ただちに社会経済上の意義を問うというのは筆者には気に入らぬが、それはよいとしよう。国際的論調を「手がかり」にして、考察が深められれば結構なことだ。だが、実際は手がかり足がかりどころではなく、べったりと他人の論述に負んぶしているだけなのではないか?論者が自分で国内資料を基に考えたらしいところは、大いなる踏み越しをしているだけである。
 観光の定義に関して、以下の6点が挙げられる。@Aは氏自身の見解である。
@ 氏によれば、【我が国の観光は、中国の『易経』にある「観国之光、利用賓干王」を語源とするものといわれ、これでみると、観光は「国の光を観ること」という意味になる。そこで、幕末・明治初期のころには観光は「国の威を示す」という意味で用いられていた。そのことは1855(安政2)年、オランダより徳川幕府に寄贈された軍艦「スンビン」号に対し、幕府では「観光丸」と命名しているところによく示されている】(20-21)
 改行して続けられる文章に「しかし、今日一般には、観光はこのような意味で用いられてはいない。観光は何よりも自然の風物や名所、旧跡等を訪ねる行為であり」云々と書かれていることからも間違いようのないことながら、氏は、幕末・明治初期以前には観光という言葉は風光を観るというような意味ではなく、「国威を示す」という意味で使われていた、と述べている。氏がこの論文を書いた2010年には既に易経の解釈でも多数のものが利用可能であったろうし、「観光」の用法に関しては別のたとえば「善隣国宝記」などに基づくものも多数存在した中で、敢えてこのテキストに基づき、この解釈を採用したのは、どのような理由によるのであろうか?氏が挙げている資料そのものが、筆者にはまるで反対に、この国では古くから「観光」という言葉はその地域の景観を観ることであったことを告げているように見えるのである。言わんやその他の資料の集積からは(筆者の好みからすれば、「光」は見せびらかすに値するものなどと言わずとも日本人が「かげ」と呼んできたもの、いろいろな姿・形であるとしたい)圧倒的多数のものが、今日の sight seeing の意味を支持していると思われる。
 スンビン号の名は、ジャワ島にある火山から採られたものであった。その景観は美しく、日本の船名に移すに「観光丸」としたところなど、この国の先人のセンスが光っている。そもそも明治以前の日本人はやたらと武威をひけらかすようなことは好まぬ。幕府の第二の蒸気船が咸臨丸であったが、こちらも『易経』から名を採り「君臣が互いに親しみ合うこと」を意味しているのだ。
 本題に返って、観光の定義を論じよう。
A 論者は、先ずお手つきをして、古い日本の「観光」観を述べたあとで、今日の日本で使われる「観光」は、『何よりも自然の風物や名所、旧跡を訪ねる行為であり、気晴らしや保養を目的にしたものである。観光地への旅行にしても、仕事上のものは含まれない。こうした特徴をまとめて定義すると、観光は「人々が風物や名所を訪問したり、気晴らしや保養のために定住場所を一時的に離れて行う自由時間における消費活動である」といえる』(註A)と述べる。
 このような定義が何に基づいて持ち出されるのか、が問題である。この場合は、註が付いていて、論者自身の著書のページ数が記されている。この後、英語の tourism に基づく定義が三つ、ドイツ語での定義が二つ考察の対象に挙げられる。
 しかし、いずれの場合も方法論など何もなしに、何の必然性もなくただ眼に触れたものを拾い上げているという様子である。アリストテレスが示しているような確かな定義の仕方など、この論者たちは何も知らないのだろうか?あるいはまた、定義の後には「ツーリズムの本質」を論じようと言う(22,-10.-11)のだが、定義と本質とはどう異なるのだろうか?こういうところに注目して、まず定義の問題を片づけよう。
 「観光」には「仕事上のものは含まれない」と言い、「自由時間における消費活動」だと論者は述べた。それならば、この後に紹介する世界観光協会のレジャーの定義に、「レジャー目的、ビジネス目的ないしは他の特定の目的をもって」と言われているのと矛盾するのではないか?日本語の「観光」と英語の tourism の定義の違いとして処理していいのだろうか?
B レイパーという人物を引き合いに出して、英語の本来「廻るもの」から来るツーリズムの定義をみる。何と!レイパーは「一般に認められる意味づけや定義はないとした上で」、次のように言うのだそうだ。「統計上の概念規定は別にして、ツーリズムとしては余暇(leisure)に関連したものであることと、観光地への旅行計画があること、すなわち、ある程度の旅行道程があり、目的地において日帰り客とは異なる滞在期間のあることが最低要件であると言っている」(20)。
 折角定義を引っ張り出そうというのだから、定義をしているものをもってきてくれと言いたい。
C そうすると、次にそんなのを紹介して、ゲルトナーとリッチーが、世界観光機構の1993年の定義なるものを元にして述べたものを示す。「自らの居住環境とは異なる場所に旅行し、レジャー目的、ビジネス目的ないしは他の特定の目的をもって、その場所において続いて滞在するものであるが、それが一年以内のものをいう」(同)。
 1993年の世界観光機関の定義なるものがあるなら、もっと新しいものだってあるのではないか、なぜ出し惜しみするのか。
D バハールおよびコザクの定義が出てくる。それによると、ツーリズムは「ツーリストが気張らし・娯楽・文化に関連した欲求を満たすために定住的場所以外において消費者として行う旅行と宿泊の事象」(21)。
 この三つの見解では、Bが「余暇活動に関連したものであること」と言い、必ずしも経済活動を意味しないものであることを示しているが、Cは「ビジネス目的ないしは他の特定の目的をもって」Dは「消費者として行う旅行」と述べて、経済性を第一面に引っ張り出していることが注目される。また、共通項として滞在期間が大事な要素として挙げられており、Bが日帰りではないという最低日数を上げているのに対してCは一年以内のものであるという限定を持っている。Dは「宿泊の事象」と言うが、これは accommodatio を宿泊と訳していることが示されているので、あるいは誤訳の可能性がある(註B)。
 これらの三者の違いはどう調停されるのか、いや、論者はどう調停しようと言うのか。ただ違うものを並べ上げて済むならば、専門家は不要である。学習者、研究者に材料を提供しようというならば、いまやインターネットを眺めているともっと気の利いたものが沢山あるのに出会す。
E ドイツ語圏の場合には、「この特徴」(というのは、論者の言う「仕事以外の旅行」と「滞在」)がさらに顕著であるとするが、英語の tourism に当たるドイツは Fremdenferkehr と言い、それは「その土地に異質の者(Ortsfremde)の旅行と滞在から生じる関係と事象の総体をいうが、ただしその滞在は定住にならないものであり、従って所得獲得活動には結びつかないもの」(21)とされている。論者はここでポザーを引き合いに出し、Fremdenferkehr は他の所の人・物・風物等と交わることで、旅行(Reiseverkehr)も Fremdenverkehr には含まれないという見解」なるものを示しているが、これは筆者には理解の出来ないことである。たとえば Der kleinen Wahrig でも、Fremdenverkehr は一種の Reiseverkehr であるとされ、また Reiseverkehr は Fremdenverkehr と言い替えられるところからすれば、当然 Reiseverkehr の方が広い概念であり Fremdenferkehr がそれに含まれるのであって、わざわざ逆の関係を挙げて否定する理由などありはしないだろうからである。そもそも、英語の tourismに当たるドイツ語は Fremdenverkehr なのであろうか?論者はBでレイパーの名を上げるに先立って、日本語の「観光」に対比しながら「これに対して、英語のツーリズムは本来〈廻るもの〉という意味の言葉であるが」と言い、ツーリズムの定義は必ずしも一義的ではないと述べているのである。英語の tourism に当たるドイツ語は Reiseverkehr ではないか。

 論者は、以上に挙げたものを総括して、再びツーリズムに不可欠な条件として「滞在」と「仕事以外の旅行」を挙げることになるのだが、ここで何故彼がこの二者に拘るのかその理由が見えてくる。スナハチ、
(a)六つ挙げた以上の各項からして、欧米では日本の観光が名所、旧跡などを訪れるという観点は希薄で、見て回る、遍歴するものであるとしても、「旅行先でとにかく滞在するというニュアンスが強い」(22)のだが、「これは、統計上などにおいて、観光客等についてもある国の滞在が24時間以上をツーリストとし、それ以下の者を日帰り客(daily visitor とする場合があることにも関係しているが(註(1)筆者)、日帰り客をツーリストとはしない考え方は、かなり一般的であるとみられる(註(2))筆者」(同)と言うのである。
 筆者の施した註(1)の箇所には、原著では(b,p.31)という註が入っていて、これは Bahar, O.とKozak, M のTourism Economics という書籍の31頁であることがわかる。つまり、『ツーリズム経済学』という書物が論者の主張の拠り所であるということである。経済学の専門家がツーリズム事象を取り扱うときに、経済学的観点から統計処理を施すのは至極当然のことであり、その際に旅行先に落とす金額が宿泊するか日帰りかで線引きが出来るとするのは、これまた至極当たり前のことであろう。「ツーリズムの定義」を問うときに、このような特殊事情のもとで記された書物を根拠に、宿泊と日帰りによってツーリズムの本質が異なるかのような見解を導くのは、不見識というべきものであろう。また、この見方をさらに一般化してみせる註(2)の箇所は、(cf.w, 128頁)となっており、これは大橋昭一、渡辺朗『サービスと観光の経営学』とその頁が示されていることを意味する。つまり、自著を参考文献として示しているのである。
(b)次に、「また、ツーリズムの定義に関連しては、「定住とならないもの」である点を別として、ある旅行行為がツーリズムに入るかどうかについて、「訪問地での所得獲得の無いもの」という要因以外でこれを行うことは、統計上などでは実際上不可能であることが考慮されなくてはならない。例えば、訪問地での所得のない出張や会議出席のもの、勉学・講習受講目的のもの、巡礼目的のもの、縁者・知人訪問目的のものなどを、レジャー目的のものと区別することは実際上困難である」と述べている(註C)。
 なぜ統計上の区別が出来ないことが問題にされるのか?論者がこういうのは、明らかに金銭の使用目的に関する統計でしかない(註D)。しかし、ツーリズム論上ではいろいろな意味でこれらを区別することはできる。しなければならないのだ。それを論者はしない。先ずは出来ないのであろう。いずれにしても、大橋氏の「滞在」と「仕事以外の旅行」に拘る理由は、彼の経済学上、あるいは経済統計的処理上の便宜に過ぎないことが明らかである。
 こうしてみると、この論文は最初からツーリズム自体の定義(「観光とはそもそも何か」(19))を問うものなどでは決してなくて、ただ「経済上どのような意義をもつものであるのか」(同)という観点からのみ書かれた文章であることが明白になる。因みに(今はじめて気付いた訳ではないのだが)、この論文が掲載されているのが「経済理論」という雑誌であることも、そのことを傍証している。
 それでは、バカげているのは当該の論文が経済学者のツーリズム観を述べているのに気付かずにムキになって議論をしている私自身だということになろうか。いや、そうはならないだろう。少なくとも上に挙げた六つの定義の論じ方に関しては、論者の、またその先行者の解釈が、全く経済学的な観点に視点をすり替えた解釈であることを示すことが、筆者には出来るからである。
 社会経済上どのような意義を持つか?という問いに答えるのでさえ、本物のツーリズムだのレジャーだのを問題にし得ていたら、こんな論文にはならないだろう。おのれのタメに色づけした(ウコン色に色づけした)レジャーを読み解いて見せているだけのこと。似て非なるものを論じているのである。恥を知れ!だ。これに対してまともなレジャー論を経済学的に解析したらどうなるだろうか?と問うべし(註@で筆者は答えている)。

 ところで、筆者にはもう一つ理解できないことがある(註E)。論者はツーリズムを論じるにおいてこれだけ経済学にバイアスの掛かった見方をしているのに、その経済(活動)が彼のいうレジャーの定義に含まれるのか、含まれないのかに関して、明確な観点をしめさないのである。つまり、Aで論者は、「今日の日本で使われる「観光」は、----中略-----観光地への旅行にしても、仕事上のものは含まれない。-----中略------消費活動である」と述べていることを紹介したが、それに対して、Cでは、「自らの居住環境とは異なる場所に旅行し、レジャー目的、ビジネス目的ないしは他の特定の目的をもって、その場所において続いて滞在するものであるが、それが一年以内のものをいう」という定義を紹介した。後者については、続けて「仕事上のものなども含む一方で、滞在という点に比較的重点のあるものとなっている」(同)と述べているのである。経済的な観点が論者に重要であることは、すでに明らかである。では、このような定義に真反対な要素が含まれていることに関して、論者はどうしてそれを取りあげて論じないのか?
 一方は日本語の「観光」の定義に関するものであり、他方は英語の tourism に基づく定義に関するものだ、だから違いは問題視しなくていいのだ、という弁解を考える読者がいたら、それは大橋氏には当てはまらない。というのは、筆者と違いツーリズム論の専門家として活躍しておられる論者である。彼が、世界観光機構の出した(1993年などという古いものではなく)2000年の定義や2008年の定義を知らない、見たことがないというのは考えられないであろう。それらは、
(1) "Tourism is defined as the activities of persons traveling to and staying in places outside their usual environment for not more than one consecutive year for leisure, business and other purposes not related to the exercise of an activity remunerated from within the place visited”
(2) "Tourism is more limited than travel, as it refers to specific types of trips: those that take a traveler outside his/her usual environment for less than a year and for a main purpose other than to be employed by a resident entity in the place visited. Individuals when taking such trips are called visitors"
となっていて、下線を施した箇所で、前者は、論者がゲルドナーとリッチーが可としたもの(20)と同じく、「レジャー、ビジネスやその他の目的で」の旅である。後者は、「訪問先の住人によって雇用されること以外の目的で」の旅行となっている。この違いが見過ごされることは考えられない。それでは、そのように違いがあり、一見するところそれこそ経済的観点からは興味の尽きない論が展開できようというのに、論者はなぜ論じないのか。
 これは筆者の推測の域を出ないのだが、簡単に言うと、論者には出来ないのだ。この違いが違いではないことが読めないのだ。それだけのことだろう。
 筆者はAに関して、この問題のあることを指摘しておいた。それは先ず日本語と英語の定義の違いではない。もし日本語の「観光」が「仕事上のものを含まない」でひたすら「消費する活動」でしかなかったら、日本観光協会とか、我が国の観光庁などの唱道している観光は論者の観光概念から漏れ出した無関係領域の観光だとでも言うことになろうか。そうではないか?先頃も観光庁は日本観光の目玉としてカジノ建設計画を打ち出したばかりである。この大型財産形成活動は「消費活動」と呼ぶには抵抗があるだろう。山師の仕事である賭博は「仕事上のものは含まれない」とすると観光ではなくなる訳だが、そうするとこれは何だと言えばいいのか?筆者の見解では、山師が幾ら疚しさなしに大金を張り回そうと疚しくあろうとも、これは立派に観光として処遇するべきである。ただ、一旦そのように処遇した上で、さらにその性格に従って、別の格付けをすれば済むことである。問題なのは、観光庁の所管であるから観光であるとか無いとか言うのではない。観光も人間の行為なのであるから、世人が一般的にどう考えているか、というところから、該当事象を枚挙し、その本質を直観し、定義を下すという方向を採ればよいのだ。
ツーリズムの本質
このように、カジノに行って一儲けしてくることは、日本語の「観光」に立派に該当する事例であろう。清水の次郎さんの賭博旅だってそれでいいのだ。問題であるのは、観光にせよレジャーにせよ、それを論じる際にはそこに上位概念としての「レジャー」があり、レジャーには、一応自分の裁量の範囲にある時間内でという条件付きでだが、一方でヘドニズムに属する様々な営みから、他方では神の世界に出て行くような時間までが含まれている。そこから、ツーリズムの本質を論じるならば、ここにも自由裁量時間においてという条件が残ると共に、日常底を離れるという性格がつきまとうことが分かる。では何がこのツーリズムを成り立たせる「本質」であるかというと、「日常を滑り出る幸福追求」が挙がってくる。そうではないか。日本語であれ英語、ドイツ語であれ、そういう点はキチンと指摘することが出来るだろう。ここに「ツーリズムはレジャー、ビジネスその他の目的の旅」というのは、自由裁量時間内での経済活動が考えられているからに他ならないのである(註F)。ビジネス(註G)である。だから立派に税金も掛かるのだ。他方、「訪問先の住人によって雇用されることを目的とする」旅行と言われている際には、今日と同じように生活するために生活の資源を確保しようとする旅が考えられており、それは当に日常底の生活なのだ。このような「何を目当てにした」旅であるかに応じて、具体的な事象を性格付けなければ、統計学にたよる形式主義者となって、活きたレジャー論もツーリズム論もやれないのだ。
 同様にみれば、論者が拘るもう一つのことがらに関しても何か言えることになろう。つまり、宿泊・滞在がツーリズムの条件だという点。論者はおそらく stay という語を滞在と訳したのであろうが、ここでもフツウにツーリズムという事象における「立ち止まり現象」の意味を考えてみると、話は余程に簡単になるだろう。「日常をはみ出して」というのにも、ピンからキリまでがあり、下太郎のそれは「イマ・ココを厭い、謂われなく明日および彼処に期待して、今ここに来ているものを投げ捨てる」(cf.Seneca, De Brevitate Vitae)のであるし、上物さんのそれは見えるものの奥にある永遠の存在に滑り込むことにあるのだ。彼処に行って「立ち止まる stay」と言っても、「そのもの」を経験するためには、それなりの時間が必要である。その時間は千割に割った一秒であってもある人は経験を成立させるであろうし、他の人は十年経ってもそこは家郷にはならない(つまり旅のままだ)。下世話な旅論にすれば、弁天さんにお参りするのに汽車の窓からちらりと眺めて御利益を得る者もあるだろうが、社殿に額ずいて面形がつくほど床に擦りつけても御利益に与れない者もある。この電車のまどから眺めて通り過ぎるのをフツウは stay とは言わないだろうが、ここで魂が身体を抜け出る(日常をはみ出すなどという生やさしい表現では足らないだろう)経験をする者にとっては、stay 以上のことがなされているのだ。
 論者は、「英語でいうツーリズムにおいては、風物、名所、旧跡などの国の光を訪れるという観点は希薄で、それよりも、『見て回る』『遍歴する』ものであるとしても、旅行先でとにかく滞在するものというニュアンスが強い」(22)と述べているが、それも西洋のツーリズムの内実を見ての判断ではなく、定義の(それもたまたま論者の触れた定義の)文言に風物、名所、旧跡を見るという記述がないことに依っているであろう。定義の文言に景色を見ると明記していなければ景観や文化財を見ることは除外されねばならぬのか?ツーリズムの本質を他を参考にしながら自分の頭で考えるのと、他人が実際どう考えているかを整理するだけとでは研究の意味がまるで違うだろう。

 筆者の手の内は示した。後は、論者がどのような事例をどのように斬ってみせるか、斬り損なうか、を愉しみにしよう。次の問題は、いま「英語でいうツーリズムにおいては、風物、名所、旧跡などの国の光を訪れるという観点は希薄」と言ったばかりの sight-seeing の話である。「自然風景など観光資源について、〈見る目〉がツーリストと地元住民では異なる」(22)という面白い主張を紹介してくれようというのである。

註@:この論文は20010年2月に『和歌山大学・経済理論』353号に掲載されたものであり、現在インターネット上にPDF文書として読むことが出来るものである。こういう文章を読むと、先ず観光という事柄に関してそれ自体の定義を問うて、その後に「社会経済上」の意義を問うのであろう、と考えるのがフツウであろう。だが、論者はペテン師であって、当初から経済学者の観点で「観光」「ツーリズム」を色づけして論じているのである。こんな論文が、世の中に蔓延して「ツーリズム論」とはこんなものなのだ、と思われるということは、我々文化人の端くれからみると、文化的な大きな損失である。文化経済学上の大損失である。こうなると、「ツーリズム経済学者」の倫理が問われていると言わねばならない。
註A:後に本論で論じ直すが、ここの文章は世界観光機構の2000年の定義を下敷きにしていると言って間違いないであろう。そして間違いは論者が下線部分を勝手に解釈して中味である。
註B:accommodation は宿泊設備に限定されぬ「受け容れ施設」としておいた方が無難であろう。
註C:筆者のレジャーの定義にはこれらはすべて含まれる。
註D:この主張がいかにおかしな主張であるかを、端的な例を以て示してみよう。「Aは困っている友人を助けるために電車に乗って東京に行った。Bは、憎い知人を殺すために電車で東京に行った。彼らの旅行は統計上などでは区別することは困難である」。
註E:じつは、もう一つ分からないことがあるのだが、結論は同じなのかも知れない。というのは、大橋氏のここでのツーリズムの定義に「非日常性」が少しも問題になっていない点である。これに対してはどう考えるべきか。論者は決して言わないだろうが、大方のガリガリ亡者の場合には、ツーリズムにしても何にしても、全てが日常的な活動になって終わるのである。快楽の追求にしても、儲け話にしてもそうである。そして、これでは折角アーリなどを引き合いに出してしかつめらしい話を組み立てても、結局は御破算。見る目も見る目の色もあったものではないのだ。
註F:しかし、後述するように、多くの事例では一見非日常と思われる行為が、、日常底のものでしかない。
註G:たしかに「レジャーやビジネス、あるいはその他の目的で」という文言はあるものの、このビジネスという語は特定の意味で使われており、COEDの "work to be done or matters to be attended to" に該当するものであることに論者は気付かないでいるだろう。

2.「ツーリズム=見る目の違い」論 アーリの見解?
これから現代の欧米で有力な、アーリ、マッカンネル、ユリーリー、シャープレイ、エンツェンスベルガーの見解を見て行くことになる。
 大橋氏によると、アーリは次のようなことを言うらしい。
【ツーリストは、日常的に接したり見聞したり体験できないものを求めて旅行する。ツーリストがツーリズム先で求めるものは、地元住民にとってはごく日常的にあるものであるために、特別に価値があるものではないが、しかし、他の所の住民、端的にはツーリストにとっては、そこまで出向いて見聞したり体験したりする価値があるものである。というのは、地元住民とツーリストではその物に対する「見る目」が異なるからである。地元住民の「見る目」にはその物は日常的なものであるが故に特別な価値はないが、ツーリストの「見る目」では非日常的なものであるが故に価値がある。「見る目」の違いから観光は生まれるが、「見る目」の違いは日常性の違いから生じる】(23)。
 論者大橋氏は、こういう記事をただ紹介するばかりで、立ち入って批判するということをしない。それはアーリの見解に賛同しているからであるのか、批判は別の箇所でしているのか、それとも後に紹介される論者たちが先の者を批判し、ツーリズムの世界でも「阿呆の展覧会」(註@)がなされるのを愉しもうというのか、小さな事柄を蔑ろにしては大事に対してもまともな仕事は出来ないのであるから、筆者はここで踏みとどまって考察を残しておくことにしよう。
(日常か非日常か?)
 「ツーリズムの基本命題」という見出しの元でこのように言うのであるから、これはアーリ氏のツーリズム論の基本命題であると言えるだろう。だが、先に触れたように、ツーリストにもいろいろなレベルのツーリズムがあり得る。その何処に論者が焦点を当てるかによって、議論の仕方は変わる。アーリの場合は、どういう訳か玉石混淆したおかしな主張になっていないだろうか。というのも、
「ツーリストは、日常的に接したり見聞したり体験できないものを求めて旅行する」
という一文は、これは只者の旅行を表現したものではないだろう。
 なぜならば、凡俗のツーリストのやることと言えば、「きょうもまた何かいいことあれかしとお寺詣での足取りかるし」といった程度であり、それというのは、何も日常性を破るものではないのである。近代以降では世俗化の恐るべき進展によって、非日常などと呼べるものは無くなっている。「今日もまた御顔をあふがんと行きつれど 御声にだにも遭えずかへり来」などという言い分は、物分かりの悪い狂人集団の者のことでしかない。新しいものに出会したなどとは口にするが、実際には昨日の快適な経験を明日に投影しているだけであろう。
 順序が前後するが、アーリが「ツーリズムの一般的規定」として挙げているという次の項目(24)を見ておこう。@「ツーリズムは余暇活動であるが、日常的な家庭生活・労働生活とは別の場所への移動により生じ(註A)-----」A「こうした余暇活動としてのツーリズムはモダン社会で一般的になったもので、対極には労働のあることを前提としたものである」。B「それ故、今日のツーリズムは多くの人が参加する社会的レベルのものとなっており、必然的にマスツーリズムの性格を持たざるをえないものである」。C「〈見る目〉(観光地)は、ツーリストにとって楽しみの状況や規模が日常的に経験しているものと異なるが故に選ばれるが、その期待は関係図書、宣伝パンフレット、テレビなどのメディアによって形成されるものである」。以下略。
 アーリは、ツーリズムは余暇活動であるとしている。ただし、その余暇活動というのは、ギリシャ古典の人々が考えた人間の本質的なあり方を実現しようとするものではなく、労働を目当てにした(ここでは「労働のあることを前提とした」と述べている)ものであり(註B)、「その労働は個人的なもの、自由業的なものではなく、何よりも組織的規律のあるものである」。したがって、このレジャーはただ「気晴らし」をめざして置かれたものであるから、それに足が付いただけのツーリズムもやはり気晴らしでしかない。論者の念頭にあるツーリズムはすべてこの限界内で右往左往するものであるから、ここから他の要素も批判吟味しなければならないことになる。
 そうであってみれば、「ツーリズムの非日常性」を主張する基本命題についても、本来のレジャーを目当てにしている人間に取ってみれば、自己実現を目指して日々自己形成を重ねているかぎりは、そこに永遠性を汲み取ろうというまさに非日常の事柄が実現するのではあるが、現代レジャー、現代ツーリズムにおいては、目先を変えるdivertisment 「目新しいもの」には向かうが、日常性を破るなどということは決して目的とはならない。その手のレジャーがツーリズムに向かう場合もあるが、また家庭でブラブラ、ゴロゴロとすることもあるし、それどころか職場で酒杯を傾けて夜遅くまで過ごすことすらあるのである。
 マスツーリズムは決して高いところには向かわない。天国への旅の関門は狭く、マスツーリズムどころか、恋人と手を取り合って入ることさえ困難であることが指摘されている(ジッド『狭き門』)のである。
 最後に、論者自身が挙げているように(相変わらず非日常性を付け加えているが、そんなんは無視しよう)、ツーリストは「非日常ならぬ日常」としてマスメディアによって形成された「見る目」を観光地に送って、そこでパンフレットと照合して安心して帰って来るのである。仮にその地に日常底を破る素晴らしい亀裂が見られても、彼らは決して見ようとはしない。
 こうして、アーリは現代ツーリズムの基本命題として非日常底を主張するのであるが、我々はこれを偽命題と結論づけなければならない。そして、あらためて確認すべきは、ツーリズムの基本命題は、レジャーの基本命題に同じでなければならない、ということをである。

【ツーリストは、日常的に接したり見聞したり体験できないものを求めて旅行する。ツーリストがツーリズム先で求めるものは、地元住民にとってはごく日常的にあるものであるために、特別に価値があるものではないが、しかし、他の所の住民、端的にはツーリストにとっては、そこまで出向いて見聞したり体験したりする価値があるものである。というのは、地元住民とツーリストではその物に対する「見る目」が異なるからである。地元住民の「見る目」にはその物は日常的なものであるが故に特別な価値はないが、ツーリストの「見る目」では非日常的なものであるが故に価値がある。「見る目」の違いから観光は生まれるが、「見る目」の違いは日常性の違いから生じる】(23)。
 この冒頭の一文は、こうして〈見る目〉のある者には、卓越したツーリストには至極当然であるがそうでない凡俗のツーリストには該当しないことが述べられているのが分かる。論者にこの区別が付かないのは、物事を把握する順番が狂っているがためであろう。「ツーリズム・観光の本質」を先ず明らかにするという作業をすれば、「ツーリストは、日常的に接したり見聞したり体験できないものを求めて旅行する」という一文のうちにどれだけの内容が含まれ得るか(上に一騒ぎはしたが、まだ全部述べている訳ではない)も明らかになるであろうが、狭い先入観念に囚われているために、アーリも大橋氏もそれが分からないのだ。
 「ツーリズムの本質」を捉えるというツーリズムの初歩のことを、彼らはやれない。そもそも学問がどのようにして進められるかという手順さえ弁えていないのである。筆者が既に短大の女学生相手に書いているものを示したように(佐竹真一論文批判への付録)、あるいはアリストテレスが述べているように、先ず当該の事象に関連する事柄を枚挙し、そこに共通する重要事項を引き出すのである。この際に肝心なのは、一つの事象に何が含まれているかを洞察する力であり(註C)、それこそ「見る目」というべきものだが、それはgaze の訳語としての「見る目」ではない。
 してみると、上に言う「ツーリストは、日常的に接したり見聞したり体験できないものを求めて旅行する」というような誰にも分かるような文章にも誰にもは分からない秘密が潜んでいる。この際は「観光」ないしは sight-seeing という英語を使った方が分かりやすいのだが、その行為は確かに日常的なことがらを掴もうとしているのではなく、自己の経験を破るという意味で「自己を乗り越え」、自己の知らないという意味で「超越的なもの」を把捉しようとしている、と言うべきであろう。すると先ず、前と同じように、レベルの低いツアーをする者の場合とレベルの高い者の場合には、目の付け所が違う。

 すると問題になるのは地元住民の見る目と余所者の見る目の違いなどではなく、端的に「非日常的なものを見る」目があるか否かの違いである。そもそも、ある地域に観光資源が存在するのは、かつてまた今しもそれを作り出した目のある者が存在したからであり、それを存続させた目のある者が今も存在するからである(時として、明治のフェノロサのように住人に忘れ去られた文化財の価値を、外から来て教えると言うことがあり、制作物すら外から来た旅人が残していったということもあるだろうが)。というよりは、土地の者の眼かツーリストの眼かという差異はこの際さしたる問題ではなく、何時の時代でもいずれの土地でも自分の眼で見るべき価値を見る者と人の後をぞろぞろと付いていって物の存在・形状を確認して満足する者とに分かれることが、問題なのである。ここからツーリズムの主体を助ける側に廻る者たちの性格が明らかにされるのであるから(直ぐ後から最後までの問題点である)。
 それにしても、「ツーリストがツーリズム先で求めるものは、地元住民にとってはごく日常的にあるものであるために、特別に価値があるものではない」とは、また何と土着の人間をバカにした話ではないか?耶馬渓の景勝は、地元の者には日常的に見られているが故に、特別に価値ある物ではない、だろうか?広隆寺の弥勒菩薩像は、奈良の馬鹿共には何時でも見られる物だから特別の価値ある物ではない、だろうか?この問題は、直ぐ後でも大きな問題を引き起こすだろう。
 次に、
【観光資源は、土地に密着したものであることが大きな特徴で、可動性がない。これに対して、通常の品物は可動性があるから、売買にあたり物品を消費者の所にもってくることができるが、観光資源ではそれができない。したがって消費者(ツーリスト)において観光地へ行くことが必要になる。こうしてツーリズムは成立する】(同)。
 この主張は、ツーリズムが先に挙げたような定義のもとに考えられていることを疑わせるものである。論者は先に、「英語でいうツーリズムにおいては、風物、名所、旧跡などの国の光を訪れるという観点は希薄で、それよりも、『見て回る』『遍歴する』ものであるとしても、旅行先でとにかく滞在するものというニュアンスが強い」(21-22)と述べているのであるから。もし、観光ではなくツーリズムはこうであるとしたら、ツーリズムの半分以上の意味はここでいう観光資源に依るのではなく、ツーリストの側にあることになろう。ツーリストは何故遍歴するか?と問うのがツーリズム論の当然の筋というものであろう。上位の学であるレジャー論がレジャーを論じるに当たっては、人間形成の主体性、能動性を第一において論じるのに対して、現代レジャー論にはレジャーは決して能動的なものではなく、機械的社会システム、機械的人間観が主体をなしているのに対応しているであろう。
 ツーリストは何故遍歴するのだろう?観光業者が凡俗なツーリストを欺いて、この景観を見よ、これが世界遺産だと騒いでみせる。だが、彼らの指の先を見てはいけない。汚い山吹色は変色し、何と指の先はおのれの指の中にめり込んでいるではないか。そうではなく、ツーリストは先ず以て景勝地であるとないとに拘わらず、神の造った美しい天然を空じるために世界を遍歴するのだ。断崖絶壁に懸崖の松、巌裾を流れる清流。これら、また一木一草まで、眼前から消し去ってしかる後に(といっても時間的前後でもない)初めて天然を天然としてこれに相遇うことができる。ミューズ神に遇うことによって初めて芸術品にしろ自然物にしろそのうるわしさを観賞することができるのである。
 しかるに、観光業者の手下であるツーリズム論者は、そうは言わぬ。
【この〈見る目〉の違いによる観光の成立は、基本的には、社会的に行われるものである。実際のツーリストの行動では個人的行動もあるが、観光資源として通用するかどうかは社会的レベルの問題であり、個人的好みの問題ではない。ここに個人的旅行などとの違いがある】
 この箇所は、順序を逆にして先に見たアーリの「ツーリズムの一般的規定」(24)のAに言うところの労働の対極としての余暇活動としてのツーリズムを論じているのだ、と視点を定めて掛かろう。「観光の成立は、基本的には、社会的に行われるもの」とは基本的にはレジャーが労働を目当てに行われたということを前提にしているのだ。だが、それならばレジャーが家で寝転がっていても、工場で酒を食らっていても成り立つのと同様に、観光も同業者と連まなければ成り立たぬというものでもないのに、なぜ「基本的には」などというぼかし言葉を持ち込んで、個人行動よりも社会的行動だなどというのだろうか。
 それは、ここで論じている者の視点がまさに観光業にあり、マスとしてのツーリストたちを捌くことによってツーリストたちを二重に疎外に遇わせるためである。いうまでもなく、最初の疎外は労働において彼らは主人公の立場から機械に使われる立場に追いやられたこと。第二はツーリズムという本来は、自己実現の、あるいは疎外からの回復のきわめて有効な活動から、見る目を背けさせる点である。こうして再度ツーリストを観光産業の食い物、喰われ者に転落させようとしている、という「見る目」を我々は持たなければならない。アテンション!だから、まともなツアーは団体ではなく個人で、賑やかにではなく世に隠れて行われなければならない。
 それはそれとして、関連の問題がまたひとつ現れてきている。アーリの「ツーリズムの一般的規定として」大橋氏が挙げる第Fは、「ツーリストの〈見る目〉、すなわち観光地の魅力度は観光資源同士の競合の度合いと、ツーリストの好みの違いによっても影響を受ける」(25)という文章は、「観光資源として通用するかどうかは社会的レベルの問題であり、個人的好みの問題ではない」(23)というのと矛盾する。矛盾する主張が同一論文に併存し得るのはどうしてか?と問わねばならないであろう。なに、話は簡単である。先に述べている「個人的好みの問題ではない」というのは、理論の問題であり、「ツーリストの好みの違い」というのは、実際の問題である。観光業業者のお手先としては、実際が問題である。理論では稼げないが実際に稼げればいいのだ。
【このようなものとしてツーリズムの目的となるものには、大別して次のものがある。第一は文化的あるいは自然景観的に突出した価値があるものである。例えば世界遺産となっているようなものである。第二はそうした突出した価値はなくとも、名所、旧跡、庭園、農場、工場で日常的な価値を越えるようなものや、他の国や地域の文物、風俗、行事のように日常的には接し得ないものである。第三は過去の遺物等を保管している博物館、名画等を保持している美術館、その他非日常的な物の展示場などがある】(23-4)。
 歳を取ったので、個人的に繰り言はなるべく言わぬ事をモットーにしている。ここでは「国や地域の-----行事」を問題にしよう。論者が想定していると思われるのは、先ず「祭り」であろう。地域に古来伝わっている神社の祭礼は、彼らのいう「観光資源」の最たるものであり、また非日常的なものであろう。論者は「ツーリズムの目的になるもの」の第二にあげているが、日本のまた世界的な「○○祭り」はやがては世界文化遺産の大事な一隅を占めるものとなるのであり、第二に位置づける必然性は何もない、と言ってよい。だが、すでにそれらのものの処遇に重大な問題が指摘されている。観光客誘致のために地方都市が主催して新たに作り出した祭り、盆踊りなどの行事のことである。それらは、ある年からいきなり催されるようになって、一年に一度繰り返されるので、たしかに非日常底のものであるが、本来のコミュニティ形成に付随してきた行事はたとえ年に一度の開催であっても「非日常」とは言えぬものである。都市では行政が全て金を支出して片づけるようになった地域の清掃活動を例に採ってみよう。田舎道に生い茂る草木は地域の住民にはそれを始末しないことには生活が滞る重大な関心事である。したがって、一夏に二度三度と共同作業が呼びかけられる。その間の時間は、刈った後のすがすがしさを感得したり、またそろそろ狩り時だと日程の心配をしたりしながら過ごされる。祭礼はやはりそういうコミュニティ形成に欠かせない行事の一つであったと思われる。現代の世界宗教に匹敵する文化形成力には乏しいものの、農民や山の民が自然の移ろいの中で播種や刈り入れなどの時期を的確に読み取って進められる生活のための作業は、水利関係の共同作業をはじめ様々な共同作業をまって初めて成り立つものである。したがって、作業の折々に自然に対する感謝を表すと共にコミュニティの絆を確認し合う行事が祭礼として行われる。このように人間を含めた自然を相手にする生活では、聖なる領域に沈み込む程度は仏教やキリスト教における程のものはなくとも、これは閑暇ある人間には観察に値するものである。ただし、そういう意味・価値のあるものとして観察すれば分かることが、軽い見物者にはほとんど何も見えないのである(祭りなどへの人出の問題を論者は扱っている(p.27)が、集団的な見る目などというものに納得する者には取り分けそうである)。田舎生活を体験しょうというグリーン・ツーリズムは年単位の時間を共にしなければ成果はあがらない、と言って過言ではなかろう。したがって、「見る目」論者の主張とは逆に、こんなことになる。非日常に逢いたければ地元民に訊ねよ!と。ツーリストは、見慣れぬものは見るかも知れないが、そこに見るべき非日常なる価値は読むことが出来ない。
註@:この表現は、哲学史についてヘーゲルが行ったもの。
註A:レジャーが家庭でも職場でさえも実現すること、本論に述べるとおりである。ではなぜツーリズムでは外に行かねば駄目なのか、と問わねばならない。駄目なハズはないのだからだ。ツアーの仕方、サイトの見方の問題なのだ。
註B:筆者の「レジャー論概論」にレジャーの二つの形を論じている。
註C:ひとつの事象にも沢山の形相が含まれている、というのは、「ものの形」を論じる際の基本の基本である。

(目で見るな、耳で見よ)
次に、この問題を考えてみよう。「ツーリズムの一般的規定」のCDに挙げられ、「補強的コメント」で重ねて論じられているところである。つまり、
【C「見る目」(観光地)は、ツーリストにとって楽しみの状況や規模が日常的に経験しているものと異なるが故に選ばれるが、その期待は関係図書、宣伝パンフレット、テレビなどのメディアによって形成されるものである。Dこうしたこともあり、ツーリストの目当てになるものは、ツーリストが日常的に接したり体験できないものであるが、それらはビジュアル性においても日常的なものより勝るものであり、かつ他の場所よりも優れたものであることが多い】(24)。
 このCの文章は、現代ツーリズムの当てにしているツーリストが、またその関係者一同が、如何に堕落しているかを示すものである。すでに繰り返しコメントしたように、自由であるが故に自己実現をさらに図り得る本物のツーリストは、他の時に彼処に非日常を期待するようなことはない。それは謂われのない恐れから逃れようとして抱く謂われのない期待である。そうではなくておのれの足下に何時も来ている己ならぬ者に身を拓き、声を聴くというやり方なのだ。
 アーリの所論でヴィジュアル性を強調するが、それは理屈にあったことである。目は五感の内で最も鋭い器官である。それ故、ゴールデンツーリズムの業者はここを攻めるに若かずである。後に触れるように資本主義の社会に疎外された臍を失った民を更にもう一度疎外しようと、最も鋭い器官である眼に触れるようにと業者・企業・政府が鵜の目鷹の目で狙っているのだ。だが、眼が最も鋭敏な器官であるとしても、自己実現を志すツーリストは眼で見る訳ではないのだ(あの星の王子さんだって、「ほんとうにだいじなものは眼では見えないんだよ」と言っている)。眼で見る物も、一度空じられてしかる後にもう一度甦らされるのである。だからここでは「眼で見るな、耳で見よ!」でなければならないのだ。
 可笑しいのは、論者が、業者たちの押しつけがましく自分たちの目で見たものを差し出しているものを、「ツーリズムはツーリストが自分の身体を観光地におき、直接体験したり経験するものであること」(26)などと書けること。ふつうは、自分の眼や耳さえもが、自分の直接体験するものを解釈して見聞きするのである。幾らツーリストがおのれの主体性を発揮しているからといってそれで体験が直接性を獲得出来るという訳ではないのだ。
 ここでの筆者の小結論は、要するに、ゴールデンツーリズムの論文に書かれたことを真反対にやれば人間は無事に生きられるかのようであるということ、これである。

3.マッカンネルの所論
 深まらないツアー論、経済学は大丈夫なのか?
 少しアーリに長く付き合いすぎたようだ。あとは大橋氏の言う「観光の本義をめぐる最近の諸論調」に関わるところだけ、取りあげておこう。
 アーリによれば、「見る目 gaze」論によって、ツーリストは非日常的な価値を求めてツアーをするのだが、社会の圧縮化、流動化によってツーリズムが進展し、人々の活動・関心が経済活動において第一位を占めるまでになった(25)と言う。これが、彼の「移動性、したがってツーリズムが今日における人間生活の根本をなすものであり、ツーリズムと日常生活との根本的区別がなくなっている、少なくともなくなりつつあるというポストモダンの考え」(28)を導くと大橋氏は言う。論者らのモダーンの概念はまだ紹介されていないので、少々戸惑うのだが、それはそうとして、この言い分は理解できない。私には勿論一般の読者にもできないだろう。ツーリズムの最も基本的な事柄は、アーリの場合には、見る目の違い、つまり非日常性にあった(註@)。してみれば、アーリによる限り、場所を幾ら変えても非日常性が披けなければ、ツーリズムは始まらないのだ。「ツーリズムと日常生活との根本的区別がなくなっている」などとは言えないハズである。
 モダーン、ポストモダンはどのように論じられているか。マッカンネルを引いて論者が語るところでは、「社会は、産業的社会からポスト産業的モダニティ社会に移行してきた」(30)といい、「産業社会の後」がポストモダンかと惑わされるが、どうやらそうではない。我々が西洋の思想史上に「近世」「後近世」といった使用をするのとは無関係に、あるいは先ず以て〈それ〉を語る場合に modernity という肝心なモデル的なものも示されないで、「マッカンネルは、産業的社会からモダン社会への移行においてこの両者の関係に根本的な変化が起きた、というよりは、この変化こそ産業的社会からモダン社会への移行を意味するものであったとみるのである」(31)と言い、「産業的社会」を脱するところでモダンが語られることが分かる(註A)。だが、それほどに大きな変化が何か生じたのか?ツーリズムの〈形〉(つまり定義ないし本質)が変化するのかどうか、が問題になろう。ここでもまた順序は逆になるが、マッカンネルの特徴的主張は、(先進国の場合という限定付きだが)「ツーリズムによる社会変革によってモダンからポストモダンへの移行は可能」(29)だというものだ、と論者は言い、ポストモダンがこの先にあることを、大橋氏は、すでに述べていたのだ。
「ツーリズム革命」?否、無間地獄堕ち 
「歴史的変化において社会の基本的なあり方を変えるような変化を、マッカンネルは革命とよぶ」(29)と論者は言う。ここでも「名辞」ないし「概念」のインフレーションが起きているようである。「産業的社会からポスト産業的モダニティ社会に移行してきた。これはモダニティ革命といっていいもので、現在はこの革命の完成・仕上げの時期にあり、次の時代への過渡期、つまり革命が起きる時期にある」(30)と論者は紹介する。これほどまでに立て続けに起きる革命は何度起きても驚くにも値しないだろうが、「社会の基本的なあり方を変えるような変化」(29)を革命と呼ぶのであるならば、何が変わったのかぐらい明示しなければならないであろう。
 この要求に応えるかのように、マッカンネルは「社会構造、その変化において文化の役割を重視している」(30)と言い、「特にモダンの時代では文化の果たす役割は大きいとして、社会を何よりも〈社会文化的な多様体〉と特徴づけ、革命も、端的には、この社会文化的多様体の変革とする」(同)というのである。
 ここから察せられるところは、論者らは「文化」というものに大きな関心を抱いており、文化の変化を以て社会の変化であるとするほどの意味を文化に付与している、という点である。ところがまた驚いたことに、続けて語られるところを読むと、「ここで文化とは、広い意味のもので、ある集団の一般的な生活様式をいうものであり(例えばある組織についての組織文化をいうような場合)、マッカンネルは〈ものの考え方 world vew〉と呼んでいる」と言う。この「文化」という語の用法こそ、あのT・S・エリオットがいう「一種の情緒的刺戟剤あるいは麻酔剤」(註B)としての用法に他ならない。それは世界観と言い替えられるのであるから、やはり幾つかのパターンがあって然るべきであろうが、そんなものを明らかにしては「文化」は狭い意味のものになってしまい、彼らには手の届かないものとなる。それで「少なくとも現在では文化のあり様を決めるものは、余暇活動であり、なかでもツーリズムや名所見物であるとしており-----」(30)といよいよ支離滅裂な話に落ち込んで行く。この水のような文化概念が何を意味しようと論者らには何でもありであり、何の関心もないと言っても良いのであるから、ツーリズムがそのあり様をどう決めようと、これまた大した問題にはなされていないことになる。
 そうではなくて、文化活動の内容に大いに関心があるというならば、我々と共にこう言わなければならないだろう。「余暇活動が如何なるものであるかを決めるのは文化のあり様である」。なぜなら、「余暇活動 leisure」が意味充実したものであり得るか頽落的なものでしかないかを決めるのが、他ならぬ文化活動であるから。文化活動という「精神が絶対的他者を仰ぎながら己を形成する働き」は、それがさし当たり何に向かうかによって生ずる多様性には関わらず、一なる形を持っている。だからこそその場合には、これが人間形成だ、と言えるのである。
 マッカンネルー大橋見解によるツーリズム論において、それでは「人間形成」はどのように語られているだろうか。
仕事か余暇か? セネカ見よ、真の仕事は真の余暇である
 大橋氏は言う、「今日、ツーリズムは国際化しているが、この世界的多様性を一つの単独な考え方 a single ideology にまとめうるものは、ツーリズムだけである。というのは、ツーリズム・アトラクションにはモダン社会の多様性が写し出されているからである」(31)。
 これは何だろう?ツーリズムの世界的多様性を一つの単独な考え方にまとめる(註C)、とは、そもそもどういう事柄で、何のためにそんなことをするのか?ツーリズム関連のアトラクションには確かにモダン社会の多様性が写し出されるだろうことは、乏しい想像力しか持たない筆者にも想像できる。だが、そのことがどうしてツーリズムが現代世界の世界的多様性を一つの単独な考え方にまとめ得ると主張する理由になるのだろうか?今やツーリズムは現代社会の隅々まで浸透しているが故に、ツーリズムと言って置きさえすれば後の説明はその時々場所に応じてホラこれだ!とツーリズムの部品を示せば良いことになる、という訳であろう。だがそんなことなら、ツーリズムだけではなく、「金」つまり経済性だって世界の隅々に行きわたっている。文化だって、論者らによれば、水のように薄く世界に普く行きわたっている。こんなものを挙げるのは冗談の口だとしても、少なくとも、ツーリズムの上部概念、上部学であるレジャー論を忘れてはいけないだろう(註D)。別の方面からも考察を加えておかねばならないが、問題点の指摘だけに留めよう。それはつまり、ツーリズムが世界的なものになっているから、ツーリズムの中味を見れば社会の全ての面をカバーしているというのだが、論者らのツーリズム概念に欠落しているものがあるのはどうするか?だ。
 話を進めよう。
 いずれにしても、「仕事と余暇との関連をどのように考えるか」の問題(註E)があり、「産業社会からモダン社会への移行においてこの両者の関係に根本的な変化が起きた」(31)、「産業的社会において仕事の現場で合理化が推進され、仕事の現場において脱文化化が進行」(同)したというのだが、この「脱文化化=文化の喪失」というのは、機械化と組合化が進み、個人としての人間喪失がおきたということを意味する。「これに対して、モダンの時代は文化復権、人間復権が進む時代であり、それは余暇活動によって可能になった」(同)と言う。この余暇の復権は、西洋先進国では概ね1960年代に始まっており、1967年は国連指定の国際観光年であった、とも言う。
 「産業社会」から「ポスト産業社会」(註F)へ移行するに当たって、ツーリズムは文化喪失の古いツーリズムから文化復権のモダンツーリズムへ移行することになる。
 ところで歴史のお温習いだが、産業的社会において文化の喪失、人間喪失がおきたと言うが、産業的社会の以前には如何なる文化の隆盛があったというのだろうか?文化・人間の復権を事とするモダンツーリズムは1960年代に始まっているというから、早くも半世紀を経過している。この半世紀にどのような人間性の復興、新たしい文化の生成が起きているというのだろうか?これらは是非論者に示して貰わねばならない(註G)。
 問題は、果たしてこの「余暇活動」とは本質的に何であったか、そこでの文化とは何であったか、を特定することであろう。そして相変わらず水のような薄っぺらな文化概念が罷り通るのであれば、それによって、筆者が黙っていても論者らは自滅せざるを得ないであろう。
 筆者の仄聞するところでは、人間の生活に機械の占める比率が圧倒的に増加したのが産業革命以後であった。この「機械化」は単にベルトコンベアーによって労働者を急き立てるるだけではなく、オフィスの仕事においても「合理化」「時間節約」の名の下に人間からゆとりを剥奪し、その結果として却って仕事の能率を下げるということがやがては明らかになった。そこで、仕事を目当てとして、仕事の正確さ、仕事の能率を確保するために「遊び」が推奨されるようになる、これが西洋における1960年代というのであろう。してみると、文化の復権だの人間性の復権だのが語られるのは甚だ不都合である。筆者が既に「レジャー論概論」において指摘しておいたように、この時代のレジャーは「気晴らし」を主とするものであって、それは決して本来の意味で文化の復興ないし文化的活動とは呼べない代物なのである(註H)。
 論者が没却しているらしい論点がある。レジャー論を概観すれば誰にでも明らかになることだが、近代において機械化が問題になって来るのと前後して、もう一つのレジャーに関わる重要な問題が浮上している。それは虚無思想の問題である。あるいは世俗化の問題と言っても同じになろうか。要するに「聖なるものなど無い」、「神は死んだ」といったスローガンによって引き起こされた人為的問題である。その根本的特徴は不安である。人間が安心して依拠していたもの(そんなものは、何時の時代でも万人の理解するところではなく、自由な少数者のみ理解していたのだが(註I)、圧倒的多数の人間は、この問題があからさまになることによって不安は拭えぬものとなった)が存在しないとされてしまう。不安からの逃走は手っ取り早くは気晴らしによって暫しの間忘れることであった。仕事に追い回されていた時代には、仕事が気を紛らわせてくれていたとも言えよう。しかるに、仕事の効率を良くするためには遊びが必要とされ、何にでも自由に使える時間(=閑暇)が経営者の側から推奨される時代に移った。そこでは、一週間に二日も与えられる休日は、何をしたいという積極的な欲求も、何をしたいという積極的な目的も持たぬ者には強制的に消化しなければならぬ怖ろしい時間となる。不安の裏側である退屈という小悪魔との抗争があるからである。したがって、当初は近くて少しばかり目先の変わったもので済んだ気晴らし対象は次第に距離を取り刺戟を強くして行かねば満足できぬようになる。先に「人間疎外」に触れたが、このような気晴らしのレジャーは各々の人自らが自らを価値から疎外するのであるから、人間性の回復など望むべくもない。努力すればするほど非道くなるのだ。
「本物・実物志向」論
 今日、田舎ツアーにしてもグルメ・ツアーにしても、体験ということがやたらと強調されていて、田舎ツアーでは農作業に参加して汗を流し露天風呂に入って汗を流し、田舎人間の日常生活の充実度を味わうことができるとされる。また料亭であれば、かつては座敷に運ばれて来る料理を味わうことで満足していたのが、料理の出来具合を目の前に見ながら、完成品を味わうことが出来るようになった。カウンターの向こう、あるいは仕切の向こうで料理人たちが忙しく働いているところを見せ物にする店が増えているということだ。こういうことをマッカンネルも問題にしている。しかし、料理屋の場合、上のように見せるところは、所詮は見せ物にすぎず、料理人たちの作業の真の姿は見ることの出来るものではない。大橋氏によると、マッカンネルでは「その作業では多かれ少なかれ専門的な技術を必要とするので、その真の姿はツーリストでは所詮把握出来ないからである」(33)ということになる。それで、ツーリストの経験、見聞は所詮〈演出された本物・実物〉の域を出ないが、ただし、ツーリズムにおいて本物を知る意義は拒否されない、とする。それは例えばツーリストが見ることによって、作業者の労働意欲が高まる、といったことである。ここから「これらの点をみると、マッカンネルは、社会の基本は労働にあるとみているものと解される」(34)という一つの重要な見解が導かれる。それはさらに「労働のあり方を含めて社会のあり方をツーリズムは変えることができる」(同)といった話にまで飛躍する。
 だが「社会の基本は労働にある」といった言葉の意味するところはじっさいには何であり得るのだろうか。J・ピーパーは「労働を目当てに○○する」といった表現をするが(講談社『余暇と祝祭』)、その場合には、人が第一に価値を置くところが労働であり、その実現のために○○をする、という意味である。そしてこう言うためには何故、どのように労働に第一の価値があると言えるのかを語らなければならないし、ピーパーは語っている。もしマッカンネルがここで、詰まらぬ労働から本物の労働への移行を主張するのであれば、彼も同じように語らねばなるまい。あるいはセネカが真の閑暇と真の労働とは中身において同一であると主張する場合のように。だが、ゴールデンツーリズムの関係者の見る目はまだ甘いだろう。ツーリストが芸術に触れようとする限り、それを語らずには通れない「美」の問題があるのだ(註J)。
 本物と紛い物の区別があるのか?
 大橋・マッカンネル組は、ツーリズムにおける観光資源の本物・紛い物について論じる。今また、我々は見られる物の本物、まがいものの区別を立てるに先立って、誰にとっての本物、まがいものであるかを明らかにしておこう。まず料理人の立場でも料理が本物である場合とそうでない場合が問題になる。今日客を満足させることが出来れば、あるいはそれによって創作者の自分の名が上がれば、それで良いとする料理人がほとんどであると言う。コンテスト、コンクールによって有名料亭の板長を決めようという話はざらにある。しかし、そういうところでは「本物の料理人」などという呼び方自体が意味をなさない。時代と土地が変われば名人も素人もなくなってしまうからだ。では「本物」が通用する社会とはどういう社会なのか?それは「修業」ということが意味を持っている社会であり(こういう文脈で今日ひとはしばしば「文化社会」という語を使いたがるが、抑制しよう)、長い時間の積み重ねによって接近して行く〈ソレ〉がある社会。〈ソレ〉を指南する師匠が居て、師匠と価値判断を共にする仲間(客と料理人の立場の違いがあっても)が居る社会である。ここに何が生起しているか、と問わねばならない。はじめに一人の能力のある料理人が一つの料理を発見する。これは味の世界の混沌の中からまさにその味がきらめき出るのを見た、というような事柄であろう。直ちに名が付く、というより名前と一緒に味が発見されるというべきだろう。彼に弟子が就き、長年修業して師匠の味に近づこうとする。弟子は習うのだが、師匠はそれでは許さない。自分の味を発見することを要求する。自分の味が見つけ出せない間は、ただの真似事でしかない、と言う。やがて〈ソレ〉を発見することによって、真似事ではない、しかし伝統を受け継いだ発見が成就する。ここには名人の個体発生が系統発生するということがあるのだ。ここに文化のことがらは迂闊に真似事呼ばわりすることのできないギリギリの奥がある(註K)。
 他方、真のレジャーの人の場合、本物の料理人が居ても、それをそれとして判断し、自分がやはり〈ソレ〉に近づこうとする限り、仮にずぶの素人であっても彼が主人公である。マッカンネル・大橋組が問題にしなければならないツーリストはこういう人でなければならない。問題はこのツーリストが味について評論家風に判断をしてそれで終わりとなるかどうか、だろう。料亭付きの料理人は免許皆伝の本物であるとしよう。しかし、本物が作った本物の料理を味わって、そこに何が生起するだろうか?彼が単なる客として来ているのであれば、彼に修業のプロセスが欠けている限り、この味はいかにしても彼の「体験」を許さないものである。彼が味を主人公となって体験しようとするかぎり、彼は、先ず初めは料理人の料理を見よう見まねででも自分の手で作ってみるところから始めざるを得ないだろう。このことは料理だけではなく、学問、芸術、宗教といった文化活動全般に関して言えることであろう。文化活動を「体験」しようとしている限りは、制作ないし演奏ないし宗教的・学問的行持を身を以て踏み行わなければならない。但し、彼らの文化活動は、主体性を発揮して行えば、そこに本物の活動が成就するという訳には行かない。先に師匠と弟子の関係を論じたように、本物である〈ソレ〉へと接近するということがなければならないからである。この時に、芸術なら芸術での「観賞」ということが問題になってくる。本物によって〈予め〉〈ソレ〉への接近を可能な限りやっておこうというのである。
 もしここで志願者が鑑賞眼を持たないならば、芸術であれ学問であれ彼にはこの道で成功する見込みはない。早々に諦めるべきであることになる。
 こういう考察を挟んでおけば、マッカンネルだけでなく、ユリーリの次節で紹介されるバカげた所論に対しても、有効な反論を簡単に提示することができるはずである。
註@:これが如何に狭隘な理解に基づくものであるかについては既に論述済み。
註A:産業社会、モダン社会が何であるかということは不分明で、肝心なのはこの間に起こる変化だ、と論者らは言うのだが、〈それ〉が何であるか、ポジティブな主張はあるのだろうか。
註B:Notes towards the Deffinition of Culture,1994. 深瀬基寛訳『文化とは何か』弘文堂一九五一年。
註C:どうやらこの読み方は間違いであり、論者の言いたいのは、多様化した世界を何らか一つの観念で覆う、というような意味なのであろう。だが、それは先に「文化」について触れたように、水のような概念を用いれば何にでも当たり障り無くやれるだろうが、何の意味も持ち得ないのだ。
註D:いくら論者らの物分かりが悪いといっても、もう筆者がどうしてツーリズムを足のついたレジャーと言ってのけることが出来るか、納得出来たであろう。それにしても、ここでの筆者の異論が意味をもっていることは、論者の後での主張、つまり「社会組織についての実験的な試み------や形はむしろ、広い意味でのレジャー活動の枠組みのなかから起きている」(31)から明らかであろう。
註E:論者は「この点」がこの問題と直結している、というのだが、「この点」とは何だろう?それは実は、現代においてはツーリズムが世界を覆い、ツーリズムには何でも含まれていると言う先の主張が、仕事中心の社会から余暇中心の社会に変化したモダン社会という仕方で考察した場合の現代に当てはまるのだ、という主張に他ならないのだ。それ見ろ、今や余暇には何でも入ってるぞ、と言っているのだ。筆者の異論の正当であったことが示されたであろう。
註F:実際にはこの時代も産業社会でしかなかったはずである。後述するように、資本主義は現代においてさらに盛んである(p.40~)。何よりも、後にユリーリの所論を紹介する箇所で、1960年代、つまりモダンツーリズムの時期を後期(advanced)産業社会と呼んでいる。
註G:筆者の思いなしにも当たらない愚見によると、人類の歴史始まって以来、人間は大勢としては何時の時代も無神論的、世俗的でありほんの一握りの天才たちだけが、善美のことがらや、神を探求し、一握りの賢者たちだけが文化的に活動をし通したのだ。
註H:日本においてモダンレジャーが動き始めるのは何時だろうか?1970年代の欧米との貿易摩擦に対して、日本人の働き過ぎが指摘されたのがその始まりであったと言えようか。しかし、それにしても、そこで簡保○○保養施設という名で各地に作られた施設は、小泉郵政改革でほとんどが廃屋となってしまった。官製のレジャー運動は火もつかずに消沈してしまったのだ。
註I:ここに〈自由な〉と筆者は述べた。この自由は特殊な自由であって、何に依っても束縛されていないという〜からの自由ではない。人間が本来向かうべきものへの自由というものが、古代においては語られたのである。文化や人間の復興を言うならば、彼らのこの語法が指し示しているものが復興することを先ず考えなければならない。
註J:ユリーリ批判も見よ。36末。37末。
註K:これは西田幾多郎の文化論に対する批判である。

4.ポストモダン・ツーリズム論の愚劣さ
 マッカンネルの「本物・実物論」は、「ツーリズムの経験・見聞は、所詮〈演出された本物・実物〉の域を出るものではない。だが、-----中略-----現代のツーリズムは、真の本物・実物志向を満たすものではないが故に、限界があるが、かといってその意義が否定されるものではない」(33)と述べるのだが、この意味深長そうな表現は結局すでに見た「ツーリストが見ることによって、作業者の労働意欲が高まる」(34)といったツーリズムの深まりとは無関係な詰まらぬ話に終わる。
 次のユリーリは、ポストモダン論的観点を示しているとされるのだが、四点に分けて紹介される何れもが、ただゴールデンツーリズムの先棒担ぎであることを示すばかりで、文化活動としての発展も、人間性の復権も述べ得ないどころか、それらがいよいよ崩壊していることを如実に示すばかりである。
@ モダン・ツーリズムの観点が日常性と非日常性を区別するものである点に関しては、既に筆者の批判は示してきた。ユリーリもこれを批判するのだが、立脚点がまるで別である。彼および同調者の言い分は、今やツーリストと非ツーリストの区別は付かなくなったというのだが、その例に挙げられるのは、仕事時間と余暇時間にやっていることが同じであるスキーヤーだのコンピューター・ソフトウェアーの開発部門の従事者である。特殊な事例を持ってきて全体を語って済むならば、何時の時代にも本物の芸術家は仕事を遊びに、遊びを仕事にしてきたのであるから、芸術の発祥の時以来人類はツーリストばかりだったということになろう。バカげた話だが。
 垂直的区別なるものも消滅しているという。笑えるのは、美的なことがらにおいて、かつては「例えば、音楽はこれまで、曲や演奏にそれぞれ独自のオーラがあり、非日常的な雰囲気で沈思して聴くべきものであったが、今やそうした特別なオーラは求められず、日常的な気晴らしの状態で聞くものとなっている」(36-7)という小理屈。実際にそのような音楽や、飾って置きさえすれば気が済む絵画の使い方が極めて一般的になって来ては居るのだろう。しかしながら、それは大方の人間に美神に見えた経験もなく、見えようという要求もないということを示しているだけのことで、希少種の人間は従来通り深い芸術体験を求め実現し得ているのである。論者がこのような主張をする事自体、自分らのツーリズムが人間のレベルを引き下げ、本来の文化とは無関係のものにした上で、下太郎ツーリストを増産するためのトリックをやっているのだということを示しているだろう。あるいは、仕事を目当てに余暇をする者(註@)の、単なる気晴らしとしてのレジャーのみが彼らの考察対象であることを暴露しているであろう(註A)。
A 次の論点も、おかしな論である。筆者は「レジャー論概論」でレジャーの目的の多様性について論じているが、ユリーリ・大橋組では「どのような多様性があるのか?」については語らない。語らないで済むならば、「ツーリストの行動や性格についてツーリストの間で基本的差異がなく、同質的なものとして一般化できるものとして主張してきた」旧来理論だって、許容しなければならないだろう。なぜなら、これはポストモダンにもっと強く認められることになろうが、「希少種を別にすれば一般に人間は快楽や力や金を目当てに廻国するものなのである」からである。どうして「現代理論ではそうした同質化、一般化は不可能で、ツーリストのいかんにより異なるもの、多様化があるものであることを強調」する必要があるのか。それも彼らは、わずかの行数を費やすことを厭うのである。
B さて、第三点目が問題である。先の本物・偽物論に関して、「旧来理論がツーリストの観賞・体験の対象物である観光資源の客体性を重視、時には絶対視してきたのに対して、現代理論では観光資源に対するツーリストの主体的関与を強調するところにある」(37)。この言い分はおそらく旧来理論の分析すら十分になしていないことを示していると思われる。というのは、旧来理論というのはアーリらのモダンツーリズム論であるが、そこでは産業第一主義からの脱却によって人間の復権が、あるいは文化の復権が主張されたのであった。人間性を喪失させられた労働者が解放され人間性が復活するというのに主体性が無視されるようなことはあってあり得ない。そのような解説をした論者、大橋氏が全面的に間違っていたのか、あるいは人間性の復権など(筆者の言うように)なかったのか、それとも何らかの仕方で、観光資源の客観的価値の論を作り上げねばならないのか、何れかであろう。そして、すでに筆者が指摘したように、ツーリストの文化体験を問題にするならば、ツーリストの主体性と彼が関わらねばならぬ諸事物と、それに関わるに先立ち価値基準を形成するための〈ソレ〉の脱主体性は三点セットとして必要なのである。
 ここのところだって、ワングの所論を引用することもなく彼に丸投げするようなやり方は不味いだろう。
C 旧来理論では理論間でそれぞれの主張がぶつかったが、現代理論では考え方の間で相互に強調する傾向が強いのだという。これ、旧来理論の人たちは学問のやり方、つまり共通の根拠を求めて行う対話術を心得ず、現代理論の人たちは理論の依って立つ根拠もいいからげんで初めから真剣味を欠いているという欠点を示している。
註@:と言っても、J・ピーパーが言うプロテスタントのクリスチャンを指す表現とは区別しなければならない。
註A:それにしても、筆者に不思議でならないのは、世には曲がりなりにも芸術家だの芸術関係者を名乗る者が無数に存在するのに、どうして彼らはこのような主張を罷り通らせるのかということ。筆者の職場の上長など、芸術の最上の理解者であることを自他共に許しているようであるが、その彼は大学にこんなツーリズム論を持ち込ませた張本人である。


5.持続可能ツーリズムと資本主義
 最後に大橋氏は、現代ツーリズム論として資本主義の時代にツーリズムも資本主義的であって然るべきであるとする論者と、これに反対する論者を挙げる。もはや文化の復権だの人間の復権だのというものは現代ツーリズムの論者には口先だけのものでしかないことが明らかになった以上、残る関心事は持続可能ツーリズムをどう考えるかという一点だけだと言ってもよい。
 だが大橋氏は、この「持続可能ツーリズム」(39)については「現在一般に強く主張されている」という修飾句を付しているだけで他には取り立てて説明もない。この語の感触は、これまでにみた現代ツーリズムが恐るべき勢いで展開していることにより、人間の営みが全てパンクしてしまうことへのアンチテーゼとして提起されたものであるかのようである。だが、幾つかの論文を並べて見ると、これは別名「エコツーリズム」と呼ばれるものであり、
【環境大臣を議長とした「エコツーリズム推進会議」(平成15年〜平成16年)ではエコツーリズムの概念を「自然環境や歴史文化を対象とし、それらを体験し、学ぶとともに、対象となる地域の自然環境や歴史文化の保全に責任を持つ観光のありかた」としました。
「エコツーリズム推進法」(平成19年法律第105号)においては、「自然環境の保全」「観光振興」「地域振興」「環境教育の場としての活用」を基本理念としています。
 エコツーリズムとは、地域ぐるみで自然環境や歴史文化など、地域固有の魅力を観光客に伝えることにより、その価値や大切さが理解され、保全につながっていくことを目指していく仕組みです。観光客に地域の資源を伝えることによって、地域の住民も自分たちの資源の価値を再認識し、地域の観光のオリジナリティが高まり、活性化させるだけでなく、地域のこのような一連の取り組みによって地域社会そのものが活性化されていくと考えられます】
という文章が手に入る。ツーリズムの定義にはそぐわぬ内容も加わっているが、まことに結構な考え方であると思われる。
 だが、これに対してシャープレイは批判的であり、それを越える枠組みが必要であって、「ツーリズム業は自然資本や人的資本など各種の資本を用いて事業を行う典型的な資本主義事業であることを根本に据えることによって可能になるというもの」(39-40)であると、大橋氏は述べている。
 資本主義が、大橋氏もそのように指摘しているように「利潤追求」(42)をこととする経済的な仕組みである限り、そういう主義的な思想をツーリズムに全面的に適用することは、観光資源の破壊、自然環境の破壊、人間性破壊など様々な弊害を生じることが指摘され得るであろう。それでいて、どうしてシャープレイはこのような主張が出来るのだろうか?
「シャープレイの出発点」(40)
 論者は書く。「シャープレイの出発点になっているのは、ツーリズムは何よりも経済的事業であり、マスツーリズムを含めてツーリズムは、経済的発展に貢献する機能がある」。
 どうして、どこから「ツーリズムは何よりも経済的事業であり」と言えるのか?論者自身が検討した「ツーリズムの定義」では、(筆者は無視したのだが)フンチカーの見解として Fremdenferkehr とは「その土地に異質の者の旅行と滞在から生じる関係と事業の総体をいうが----」(21)とあるだけで、その他の定義はいずれもツアーの主体であるツーリストの「行為」として説明されている。そしてそれは至極当然なことであると筆者は思う。
 したがって、大橋氏のこの論文の展開に即して言えば、以下の論述は多義的名辞を不正に使用した誤謬論理であると言わねばならない。しかし、すでにそういうことを企図しているらしいことは、この拙論の初めから見当がついていたのであるから、今更慌てることはあるまい。論者の土俵に上がって、幾つか問題点を指摘して終わることにしよう。
@人間の事柄を論じる際の前提に関して
 シャープレイは、旧来的マスツーリズムは、経済的発展にとっては、持続可能なツーリズムなどよりも効果的な手段でありうる、と述べている(40)と言うのだが、持続可能ツーリズムとマスツーリズムを比較する場合に経済的発展を基準に据えるというのは、論者の錯誤かトリックか、そうでなければ無意味な所業であろう。持続可能ツーリズムが「(人類の?世界の?)持続可能な発展」というものを前提にして、それをツーリズムに適用したものである。利潤追求の資本主義は、そのままでは地球破壊、人類の絶滅を招きかねないという危機意識の上に展開されているのが「持続可能な発展論」であってみれば、シャープレイのためにする批判は、「持続可能なツーリズムの命題は、偽善的欺瞞的なものだ」(41)「資本主義社会のツーリズム(業)である限り、資本主義の把握においてマルクスの見地を排除する必要はない」(43)などと言っても、何の説得力も持たないだろう。
 マルクスについて論じる資格が筆者にあるとは思わないが、それでもマルクスの経済学の根底には人間存在に関する基本的な原理理解(これはフォイエルバッハのテーゼに基づくものである)があったことは確かであり(三十年前に僅かに囓っただけの記憶を辿っている。時間が許せば、もう一度研究をやり直したい)、抽象的な「経済学」を議論の根拠に据えることは間違いの元である。
A格安航空会社がその典型であるように、今日の旅行業、観光業界は、ガソリンを空にぶちまけ炭酸ガスをばらまいている。地球温暖化問題、天然資源の枯渇問題といった人類の将来を崖っぷちに追いやっている問題などまるで意に介しないのである。こういう問題が現存することを論者らツーリズムの研究者は知っていない訳ではない。「持続可能ツーリズム」(39)云々という言葉はそれを示しているのだからだ。
 人類はツーリズムを「必要悪」として行わざるを得ないか、というと、そんなことはない。レジャーに関しては「人間」の存立に関わる重要な意義を持っていることが指摘されている。したがって、レジャーに関しては如何なる形のそれが最良であるか、あるいは少なくとも人類に許されるかといった検討が必要である。しかし、ツーリズムに関してはそうではない。上位概念であるレジャーにおいてブレーキが掛かれば、ツーリズムは一切ストップさせねばならない。遠隔地の物珍しい産物を金ずくで世界中に左右しているバカ共も、今後は地産地消政策に委ねて身を引かねばならない。
 こういう状況にありながら、ツーリズム論者は口を拭って知らぬふりをし、資本主義的ツーリズムをなお今後に発展を期待し得るものであるかのように論じている。-------これ、非倫理的悪徳行為を、各国政府が推奨している確信犯的犯罪に他ならないのではないのか!御用学者共が政府に追従して黒を白と言いくるめている図ではないのか!

                          2013.8.21





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