下野国 宇都宮氏

関白 藤原道兼の曾孫 宋円が前九年の役に当地に到って祈祷し、その功によって下野国を賜わり、宇都宮座主になったのに始まるという。

代々鎌倉幕府に仕えて重きをなし、南北朝のころには公綱は南朝に属して活躍した。室町時代には、関東八家の一人として勢威を振るい小田原落城の後、国綱は秀吉に仕えた。関ヶ原の役に国綱は家康に抗したため国を除かれ没落した。(松本 新八郎 著)

新説:下野宇都宮氏家臣の末裔、芳賀さんによると『関ヶ原の役に国綱は家康に抗したため国を除かれ没落したのでなく、1597年、豊臣秀吉により改易された』そうです。理由は不明だそうですが、『検地での石高申告の不正があったとも、秀吉の姻戚である浅野氏からの養子の話を断ったとも言われている』そうです。

宇都宮氏 系図

藤原道兼−>兼降−>兼仲−>宇都宮宋円−>宋綱−>朝綱−>成綱−>頼綱−>秦綱−>景綱−>貞綱−>公綱−>氏綱−>.....国綱−>?

公綱の子 広綱が三宅を名乗る


宇都宮 公綱(1301年〜1356年)

下野の守護大名 元高綱、法名 理連正眼庵と号した。元弘の変に北条軍に属して西上、奈良に駐したが、建武政府が成立すると入京して雑訴決断所の評定衆となった。1335年(建武2年)尊氏が鎌倉で叛乱をおこすと新田 義貞に従って東下、箱根 竹下で大敗、京都に帰ったが、一時 尊氏に降伏した。尊氏が九州に西下するとまた政府軍に属した。1336年(延元元年)尊氏が大挙入京して幕府を開くと、公綱は後醍醐天皇とともに降伏し、まもなく逃げて、吉野に至った。翌年還俗して四位左少将に叙任、義良親王、北畠顕家らの関東軍と合して尊氏軍を奈良に破った。その後、南朝振わず。おおむね関東北群にいてたえず再起挙兵をはかった。(松本 新八郎 著)


宇都宮 氏綱(?〜1370年)

下野の守護大名 公綱の長子、幼名 加賀寿丸、父 公綱は南朝方だったが、氏綱は北朝方で一族とともに所領の経営に当たった。1336年(延元元年)北畠顕家が公綱らと鎌倉に足利義詮を攻めたとき、紀党の芳賀禅可に推されて宇都宮に兵を挙げて義詮を援けた。そのため顕家に撃破されたが、のちも義詮に従って南軍に抗した。

1351年(正平六年)尊氏が直義を関東に攻めた時は尊氏方となって利根川、駿河薩埋などで力戦名をあげた。1363年(正平十八年)芳賀禅可が越後守護を奪われたので、関東管領足利基氏に叛した時、氏綱は基氏の小山の陣にいたって異心なきを証し、事なきをえた。(松本 新八郎 著)


元弘の変(1331年)

後醍醐天皇による再度の討幕計画が吉田定房の密告により発覚、日野俊基、文観らが捕らえられる。

 

 


最終更新日: 01/29/05