三宅小学校


「三宅」の由来は、安閑天皇時代の534年、皇室直轄領となり、ここに置かれた米穀を収める倉「屯倉(みやけ)」から転化した。

三宅村は、乙ノ辻、太中、小坪井、鶴野、蔵垣内、丑寅、宇野辺の七つの大字があり、人口約4000人の純農村であったが、昭和32年3月、小坪井、鶴野が摂津市へ、他5地区は茨木市へと分村合併した。また、昭和35年4月には、乙ノ辻、太中が摂津市へ編入された。

三宅村のなごりを残すのもとして、三宅小学校、三宅農協、茨木署三宅派出所、その裏が三宅村役場跡でこの一帯が村の中心部であった。


最終更新日: 01/29/05