浪人になった三宅氏は、その後 三宅六郎兵衛は中川清秀(茨木城)の御幕下となり、三宅伊左衛門村晴は、中川清秀より弐百石を給わる家臣となった。
中川清秀の次代 中川秀政が、天正13年9月 に播磨 三木城へ転封になり、三宅伊左衛門村晴も移り住んだ。
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| 三木城絵図 お城と戦国大名の大谷氏提供 |
文録元年3月、三木城より秀政は三宅氏とともに軍勢3000名と文録の役に参戦し朝鮮に渡り活躍をしたが、秀政は、文録元年10月24日、虎狩りの最中に朝鮮国水源城で雑兵に打たれて戦死(25歳)した。これを聞いた豊臣秀吉は、戦でなく遊びの最中に戦死したことに激怒し、家督と継いだ弟 中川秀成を拾二万石の播磨 三木城より七万四千石の豊後 岡城への転封を命じた、三宅伊左衛門村晴も主君中川秀成と共に文録3年(1594)12月に豊後 岡へ移り住んだ。
最終更新日: 01/29/05