以心流 流祖 三宅半左衛門政友

剣の流派の中で”心”の字を名称に持つもの407流。以心流もその中の一流で、流祖は三宅 政友以心、岡藩士とある。

政友の父は長兵衛。また、理右衛門政頼と称し、天正年中、中川秀政公に召し抱えられ、文録の役では敵将を討ち取り福島正則の危難も救ったという。その後、秀成公の時300石を給せられ、慶長7年退身して、京極若狭守忠高に仕え、500石となっている。

政友は、元和6年、政頼が広島に在住の折り、誕生したと伝えられ、父の血を継ぎ剣の上達は、抜群であったといわれる。さらに、五ノ坪槍術や戸田、朴傳(ぼくでん)、無極、新陰一刀流を修め、後に「心なきところ剣の道なし」と悟り、心を以って行うの意を取り以心流を創始した。

貞享5年7月2日、四代久恒公の時帰藩がかない。御先手物頭役を仰せ付けられ、藩主や藩士の師範として以心流を教授した。元禄8年7月16日、久恒公葬儀に際しては碧雲寺廟所までの供奉を命じられ、人格信任は不動のものがあった。

元禄13年12月5日、行年80歳で死去。伝外以心居士、墓は大正公園中腹にあったが現在では見当たらない。

 

三宅 半左衛門 政友
上総介おめぐ様より寄進された
イメージ画です

広報 たけた 1980年3 No314より


最終更新日: 01/29/05